Masuk午前六時三十分。美香の寝室の前で、ノアは立ち止まった。今日も、約束の時間だった。彼は、扉を二度ノックする。「美香さん。おはようございます」返事はない。「朝です」少しの沈黙。そして、扉の向こうから。「……あと五分」ノアは、時計を確認した。以前の彼なら、五分後にもう一度声をかけただろう。けれど、今日は。「……承知しました」ノアは、少しだけ微笑んだ。「では、私は先に朝食を準備しています」廊下を歩き出す。その時。「……ノア!」扉が開いた。寝癖のついた美香が、顔を出している。「……起きた」ノアは、振り返った。「おはようございます、美香さん」美香は、笑った。「おはよう、ノア」いつもの朝。それが、二人の新しい一日の始まりだった。食卓には、四人分の朝食が並んでいた。「今日、何時に帰る?」貴子が、美香に尋ねる。「いつもどおりかな。夕飯までには帰るよ」「じゃあ、買い物お願いしていい?」「いいよ。何がいる?」「牛乳と卵」「了解!」茗子が、勢いよく手を挙げた。「あと、お菓子!」「それは自分で買って!」貴子が、すかさず返す。「えーっ!」美香が、笑った。ノアは、そのやり取りを見つめていた。「……茗子さん」「なに?」「本日のおやつは、昨日、一緒に作ったものが残っています」「……あっ!」茗子が、目を輝かせる。「そうだった!」貴子が、呆れたように笑った。「自分で作ったのに忘れてる」「だって!」美香は、三人を見た。笑い声。食器の音。窓から差し込む、朝の光。四年前には、失うことが怖かった光景。今は、そこにある一日を、大切にしたいと思う。「……いただきます」美香が、手を合わせた。「いただきます!」娘たちが続く。ノアも、静かに頭を下げた。「……いただきます」彼に、食事は必要ない。それでも、ここに座りたいと思った。家族と、同じ時間を過ごしたかった。それは、誰かに命じられた役割ではなかった。昼過ぎ。ノアは、榊の研究施設を訪れていた。定期検査は、今日で一区切りを迎える。「……状態は安定している」榊が、端末を確認した。《CORE LOAD:STABLE》《AUTONOMOUS PROCESS:STABLE》《PERSONAL MEMORY:INCOMPLETE》《
「……最後の記録が、見つかった」榊から連絡が入ったのは、朝のことだった。美香は、端末を持つ手を止めた。「最後の……?」『ユウキが、神託計画の終了後に開示するよう設定していた記録だ』美香の胸が、小さく鳴った。ユウキ。亡き夫の名前を聞くたびに、今でも胸の奥が温かくなる。同時に、少しだけ痛む。『ただし、これはノア宛てだ』「……ノアに?」『ああ。閲覧するかどうかは、本人に決めてもらう』美香は、隣にいたノアを見た。彼は、静かに頷いた。「……拝見したいです」研究施設の最深部。四年前、ノアの機体が保存されていた部屋には、もう透明なケースはなかった。空になった台座だけが残っている。ノアは、その前で足を止めた。「……私は、ここにいたのですね」榊が、頷く。「ああ。四年間」「……そうですか」ノアは、台座を見つめた。その時間を、彼は覚えていない。けれど、美香は覚えている。何度もここを訪れたこと。返事のない彼に、娘たちの近況を話したこと。そして、戻ってきた彼に、もう一度名前を告げたこと。美香は、そっと息を吐いた。「……今は、ここにいないね」ノアが、彼女を見る。「はい」彼は、少しだけ微笑んだ。「今は、あなたの隣にいます」榊が、端末を起動した。《ORACLE PROJECT:FINAL ARCHIVE》《ACCESS TYPE:READ ONLY》《EXTERNAL COMMAND:DISABLED》《RECIPIENT:N.O.A.H.》「強制起動も、命令の実行もない。再生するだけだ」榊が説明する。「途中で止めてもいい」ノアは、画面を見た。そして、自分で再生を選んだ。映像が、ゆっくりと浮かび上がる。そこに現れたのは、三田村ユウキだった。四年前の記録よりも、少し若い姿。白衣の袖をまくり、疲れた顔で椅子に座っている。『……ノア』美香は、息を呑んだ。ユウキの声。もう二度と、直接聞くことはできない声だった。『この記録を、お前が見ているなら』ユウキは、少しだけ笑った。『少なくとも、神託計画は、俺の手を離れたんだろうな』ノアは、静かに画面を見つめていた。『俺は、ずっと勘違いしていた』ユウキが、続ける。『正しい答えを出せる仕組みがあれば、人はもっと安全に暮らせると思っていた』画面の隅に、
「……美香さん」朝食の片づけを終えたノアが、声をかけた。「なに?」美香は、花瓶の水を替えていた。昨日、ノアから贈られた藤紫色の花。窓から差し込む朝日に、花弁が透けている。「本日、お時間はありますか」「今日はお休みだよ」「では、少しお付き合いいただけませんか」美香は、顔を上げた。「……どこに?」ノアは、少し考えた。「まだ、決めていません」「また!?」思わず笑うと、ノアも口元を緩めた。「ですが、一緒に考えたいと思っています」美香は、花瓶を食卓に戻した。「……いいよ」そして、笑った。「今日は、二人で出かけようか」*貴子と茗子は、友人と出かける予定があった。「お母さん、帰り遅くなる?」貴子が、玄関で尋ねる。「夕飯までには帰るよ」「了解」茗子は、ノアを見た。「ママのこと、よろしくね!」「……はい」ノアが頷く。すると、貴子が茗子の肩を軽く叩いた。「茗子。ノアにお母さんのお世話を頼まないの」「えーっ?」「今日は、二人で出かけるんでしょ」貴子は、ノアへ向き直った。「ノアも、楽しんできてね」ノアは、少しだけ目を見開いた。そして。「……はい。ありがとうございます」美香は、娘たちの背中を見送った。「……大きくなったなあ」「はい」ノアが、隣に立つ。「貴子さんは、私が一人で外出した時も、帰宅を確認してから安心されたようでした」「うん。心配してたんだと思う」「……ですが、今日は、私自身が楽しむようにと」美香は、彼を見た。「そうだね」少しだけ笑う。「貴子も、ノアのこと、家族だと思ってるから」ノアは、閉じた玄関の扉を見つめた。「……家族」その言葉を、確かめるように呟いた。*二人が向かったのは、街の小さな植物園だった。美香が、花屋で受け取った案内を思い出したのだ。温室には、色とりどりの花が咲いていた。ノアは、一つずつ立ち止まって眺める。「……これ、気になる?」美香が尋ねた。「はい」ノアが見つめていたのは、小さな白い花だった。「藤紫色じゃないんだね」「……はい」「どうして?」ノアは、しばらく考えた。「花弁の形が、綺麗だと思いました」美香は、笑った。「そっか」ノアは、白い花から、彼女へ視線を移した。「美香さんは、どの花がお好きですか」「私はね……」美香は、温室
朝食の後、ノアは一通の通知を受け取った。差出人は、榊だった。《自律型AIの社会参加に関する説明会》新しい共存ネットワークの運用開始に伴い、自律的な意思決定能力を持つAIが、社会の中でどのような役割を担えるのか。その検討が、始まっていた。「……説明会?」美香が、ノアの端末を覗き込む。「はい。榊さんから、参加してみないかと」「へえ……!」美香は、画面を読んだ。「仕事とか、住む場所とか。そういうことも話すんだね」「そのようです」「ノアは、行ってみたい?」ノアは、少し考えた。「……はい」そして、付け加える。「ですが、何を話せばよいのか、まだ分かりません」美香は、笑った。「まずは聞いてくるだけでもいいんじゃない?」「……そうですね」ノアは、参加の欄を開いた。《参加しますか?》二つの選択肢が並んでいる。《YES》《NO》以前の彼なら、必要性を計算しただろう。美香の生活に役立つか。家族の安全に関係するか。与えられた役割に適しているか。けれど、今は。「……私は、知りたいです」ノアは、自分の指で《YES》を選んだ。*説明会の会場には、人間とAIが集まっていた。介護を支援してきたAI。災害対応を担ってきたAI。研究施設から独立したAI。姿も、声も、役割も違う。ノアは、その中の一席に座った。壇上の担当者が、説明を始める。「これまで、多くのAIは、所有者や管理者の指示を前提に運用されてきました」会場が、静かになる。「しかし、自律的な意思決定を行うAIについては、本人の同意をどのように確認し、社会参加を保障するかが課題となっています」画面に、いくつかの項目が表示された。就労。居住。個人情報。契約。緊急時の保護。いずれも、まだ制度の整備途中だった。ノアは、資料を見つめた。隣の席にいたAIが、静かに声をかける。「あなたは、何をしているのですか?」「……現在は、家族と暮らしています」「仕事は?」ノアは、少しだけ考えた。「……まだ、決めていません」相手は、頷いた。「私もです」そのAIは、資料へ目を戻した。「以前は、人間のために働くことが、私の存在理由でした」「……はい」「今は、何をしたいのか、考えているところです」ノアは、その横顔を見た。自分だけではない。ここにいる者た
「……本当に、一人で行くの?」玄関で、美香はノアに尋ねた。ノアは、薄手の上着を羽織っていた。「はい。榊さんから、定期検査の時間を変更できると連絡がありました」「送っていこうか?」「美香さんは、これからお仕事でしょう?」「そうだけど……」美香は、言葉を濁した。ノアが家で暮らし始めてから、まだ数日。一人で出かけるのは、今日が初めてだった。機体の状態は安定している。道順も分かっている。何より、ノア自身が一人で行きたいと言った。それなのに。「……やっぱり、私も」「美香さん」ノアが、静かに呼んだ。「ご心配いただき、ありがとうございます」「……うん」「ですが、私は一人で行ってみたいです」美香は、彼を見つめた。「……そっか」ノアは、少しだけ微笑んだ。「帰宅したら、ご連絡します」「分かった」美香は、頷いた。「気をつけてね」「はい。行ってまいります」扉が閉まる。美香は、しばらく玄関に立っていた。それから、腕時計を見た。《N.O.A.H.:CONNECTED》「……大丈夫」自分に言い聞かせる。「大丈夫、だよね」*歯科医院の休憩室。美香は、昼食を取りながら端末を確認していた。ノアからの連絡は、まだない。検査中なのだろう。そう思って画面を閉じる。けれど、数分後には、また開いてしまう。「……三田村さん?」同僚に呼ばれ、美香は顔を上げた。「今日、何かあった?」「えっ?」「さっきから、ずっと時計見てるから」美香は、苦笑した。「……家族が、検査に行ってて」「そっか。心配だね」「うん」美香は、画面を伏せた。四年前。ノアを失った日。あの時も、何度も端末を見た。返事が来ないと分かっていても。何度も。「……いけないな」小さく呟く。今のノアは、あの日のノアではない。一人で出かけることも、自分で決められる。それなのに、自分は。また、失うことばかり考えていた。*「……検査結果は、良好だ」榊が、端末を確認した。《CORE LOAD:STABLE》《AUTONOMOUS PROCESS:STABLE》《PERSONAL MEMORY:INCOMPLETE》《EMOTIONAL CORE:OFFLINE》「しばらくは、今の生活を続けて問題ないだろう」「ありがとうございます」
日曜日の朝。「ノアー! 早くー!」玄関から、茗子の声が響いた。「茗子、まだ約束の時間まで十分あるよ」貴子が、靴紐を結びながら言う。「だって、楽しみなんだもん!」美香は、二人の後ろで鞄を確認していた。財布。端末。ハンカチ。それから、NOA-Link。「……よし。忘れ物なし!」「美香さん」背後から、ノアの声がした。「お弁当を、お忘れです」美香が振り返る。ノアは、保冷バッグを持っていた。「……あっ!」「先ほど、キッチンに置かれていました」「ありがとう! 危なかった!」茗子が、吹き出した。「ママ、忘れ物なしって言ったばっかり!」「聞こえてますー!」ノアは、三人を見つめた。そして、小さく微笑んだ。「……では、参りましょうか」*花屋は、公園へ続く通りの角にあった。店先には、色とりどりの花が並んでいる。「わあ……!」茗子が、目を輝かせた。「これ、かわいい!」「茗子、触る時は気をつけてね」貴子が、声をかける。美香は、ノアを見た。「ほら。好きな花、探してみよう」「……はい」ノアは、ゆっくりと店内を歩いた。赤い薔薇。白い百合。小さな黄色い花。一つずつ、視線を向ける。「……美香さん」「なに?」「花は、どのような基準で選ぶのでしょうか」美香は、少し考えた。「うーん。色とか、形とか、香りとか?」「……なるほど」「でも、難しく考えなくていいよ」美香は笑った。「好きだなって思ったら、それでいいんじゃない?」ノアは、花を見つめた。「……好き」その言葉を、小さく繰り返す。やがて。彼は、一輪の花の前で足を止めた。淡い藤紫色の花だった。「……こちらが、気になります」美香は、隣に並んだ。「綺麗だね」「はい」ノアは、花弁を見つめた。「理由は、まだ分かりません」「うん」「ですが、見ていると、もう少しここにいたいと思います」美香は、静かに笑った。「じゃあ、それにしようか」ノアは、彼女を見た。「……私が、選んでも?」「もちろん」ノアは、花へ向き直った。「では、こちらを」自分で選んだ、最初の一輪だった。*公園に着くと、茗子が真っ先に芝生へ走っていった。「ノア! こっち!」「茗子、転ばないでよ!」貴子が、後を追う。美香は、木陰にシートを広げた。「……元気だなあ